学生時代に学んだこと

・5人以上でワイワイするよりも、4人くらいの規模感でこじんまりしている方が好き。

・内と外で分けようとしてしまう。

・一度好きだと思ったらとことん好き。一度嫌いだと思ったら嫌いだという先入観から抜け出ぬのが大変。

・継続的な関係を築くことは人生において大きな糧になる。

・素直に人に聞く。

・助けてもらうばかりではなく助けようとする。

・人に興味を持つ。

・親しみやすくなる。

・苦楽を共にした人と仲良くなりたい。飲み友は別にいらない。

・パーソナルスペースを冒せる、冒される人になる。

・思ったことをできるだけ口にする。気を使い過ぎない。

『ヘーゲル「精神現象学」入門』前半

今回はマルクスが批判しつつも参考にした偉人、「ヘーゲル」。

 

ヘーゲルは1700年代後半から1800年代前半にかけてドイツで活躍した。

またドイツ人かよ。真面目かよ。

本当に近代哲学の偉人にはドイツ人が多いっすね。頭の良い民族だ。

そりゃあ自分の国の偉人にたくさん哲学者がいたら、その人の自伝だの武勇伝だの耳にするわな。

 

ドイツの偉人カントの「我思うゆえに我あり(コギトエルゴスム)」

って誰もが聞いたことのあることフレーズをヘーゲルは批判したわけです。

 

 

私たちも日常生活の中で主観的、客観的って言葉を何の気なしに使ってる。

カントは一人の人間が主観と客観の二役を演じていると思った。

でも物を右から見る時と左から見る時、見え方は変わっちゃう。

ってことは人によって主観は異なり、そして私が「客観的」だと思っている事柄は

実は他人にとっては客観ではないじゃん。

意識の外部の客観的な実在を比較して観察なんてできっこない。客観なんて錯覚だ。

こういう批判をしたのがラインラントだそうです。ヘーゲルもこの手の批判をしています。

 

 

ほう。カントのコギトエルゴスムって

私が昨日考えた時、考えた主体は私だけどその私は今の私とは違う。

ほらたった今そう考えていた主体も、今この瞬間の私とは違う。

じゃあ私ってなんなの?
それは、こうやって今この瞬間に考えている私なんだよ。

 

 

ってことなのか。

自己完結した考え方だってヘーゲルは批判しているけど、カントにも納得。

 

カントの主観客観の考え方に対してヘーゲルがどう考えたかというと、

正直、何言ってるか私には理解できん。w

 

「ただ純粋に眺めれば良い」というのがヘーゲルの結論みたい。

客観性って絶対的に真じゃなくて、相対的に心理であれば良いんだって。

他の人はこう思ってるんだろうな、という推測レベルで良いってことかしら。

 

 

自分は自分だ!!俺という主体が考えているんだから俺は存在するんだ!

ここで他人の存在を考える隙間もないのがカント。

 

一方でヘーゲルは自分とは他人の存在あってこそ成り立つ存在であって、

他人を介して自分を捉え直す。他人までも自分である。

という共同体主義的な考え方だなという印象。

自由が叫ばれるフランス革命の中で、ヘーゲルは自由とは他人との関係の中で成り立つことを痛感したのかな。

 

 

社会主義と民主主義の違いって?

社会主義って現代の日本では

「アブない思想」「近寄っちゃいけない」「時代遅れ」

なレッテルを貼られているように感じる。

 

でも最近『マルクスエンゲルス小伝』を読んでみて

マルクスはプロレタリア階級が搾取される対象である現状を変えたい、

大多数を占める労働者にも余剰価値を分散するべきだ、

 

という考えに寄って社会主義思想を深めていったわけじゃない。

 

そう考えると民主主義と社会主義って

理想とするところは同じじゃないの…?

 

社会民主党とも言うぐらいだし、どう違うんだろうか。

『社会契約論』を読んでみた

就活も終わり、卒論もない。

私は「卒論がない」ことに少しコンプレックスを感じてる。

 

人の意見を理解し、暗記することには慣れている。

でも、「私はこう思う!」と主張してきた経験が少ない。

 

大学って義務教育との対比において、

能動的に自ら学ぶ場って紹介されることが多いけど

卒論のない私は自ら能動的に学ぶ機会を逃して学位を得るのか…と思うと

少し後ろめたいというか、これで良いのか?とモヤモヤしてた。

 

卒論って自分の興味のある分野を自ら調べて結論を出すモノなら、

私も自分で興味のある分野について調べて自分なりの結論を持ってみよう!

 

これが古典を漁りだしたキッカケ。

 

では、さっそくジャン=ジャク・ルソーの著書『社会契約論』の感想を書いてみようかな。

 

こんなに自己抑制のある主権者が存在するか!
論理的には成立しても、実現可能性低すぎるやろ!

 

これがファーストインプレッション。

要は、「みずからと権力を全部共同体に譲渡すれば、社会の構成員全員の人格と財産を守ることができる!だから全員権力を社会に譲渡しよう!」

この契約は自分と他の主権者と、そして自分と国家と

二重に結ぶことになる。

 

ここがポイントで、他の主権者も自分と同様に国家と、そして他の主権者と契約を結んでいる。だから運命共同体!安心!ってことなんだろう。

 

私も契約するからあなたも契約してね、

私も約束を守るからあなたも約束守ってね、ってこと。

 

そんなに他人のこと信用出来っこねえわ。

 

こう思った。でも、読み進めていくととても正論に思えてくる。

まず、一般意志は立法に関して考えられる。

人民が個別意志を持ちうることを前提として、一般意志を抽出したものを方にしようと主張しているわけ。
特別意志を方の中に入れてしまうと、一部の人にのみ有利な条項を作りかねないから
全員が納得している部分のみを立法化しようというもの。

 

めっちゃ正論やん。

 

そして時代背景を視野に入れてみると、ルソーの意味していたところを私は取り違えていたことに気づいた。

 

ルソーが生きていた1700年代のフランスはまさに絶対君主制下にあり、

「奴隷のように自由のない国民が、自分自身の手で自分の納得する制度を作り出すにはどうしたら良いのだろう?」

と市民が考えるのは自然なこと。

 

王様のように好き勝手やる奴がいては全員が納得する制度なんて作れない、

多少なりとも我慢を受け入れた上でこそ、自由を手に入れられるんじゃないか。

 

こういう思考回路になるのはとっても自然。

むしろ、今の私が考える「そんな我慢なんかしたくないし、自由にいてえわ」

って考えが幼稚で傲慢なものに思えてきましたわ、、、

 

いつの時代から、自由に我慢を求めないようになったんだろう?
(現代の日本人の感覚からすると、自由と義務は一体だって考えはあるけど

義務と我慢とは少しちがうような気がするし、義務についても強調されていないような気がする。)

 

 

そしてもう一つ疑問に思ったのは

執行権を持つのは主権者じゃないの!?

ということ。

日本の場合執行権(行政権)を持つのは内閣であって、

彼らも主権者なんじゃないの?

 

ルソーは統治者(執行権を持つもの)は公僕であり、主権者であってはならない

と主張しているけど、

つまり全く関係のない人が行政権を持つべき、ということよね?

それって内閣は外国人で構成されるべきってこと?

なんだかしっくりこないのは私だけでしょうか。

理解の仕方がおかしいのかな。

 

 

総じて、法とは一般意志によって形付けられるものであることには納得した、

でも一方で理想論的すぎて、これが社会主義的な発想に発展していったのかな、

つまり実現は無理だったのかな。と感じました。

 

 

 

・立法者と執行者の違い

・ルソーの思想を実行した政治体があればその結末を知りたい

・ルソーはカトリックに改宗したらしいけど、なぜなんだろう

ライプニッツモンテスキューマキャベリ、ロック、ディドロ、グロティウスの本も読んでみたい

 

 

 

最後に、、、悲しかったのは

ルソーは祖国ジュネーヴへの多大な愛国心を『社会契約論』に込めたはずなのに、

ジュネーヴ政府はこれを発禁としてしまったこと。

また自分を陥れる陰謀同盟を恐れたり、ノートルダム聖堂の大祭壇に『対話』の原稿を寄託しようとするも果たせなかったり、

後世に偉大とされる人は、存命中は不遇な人生を送っているのかも。

 

歴史に名を残した人が存命中にもっと評価を受けられたらよかったのにな。

 

--------------------------------------------------------------------------------------------- 

 

取り違えてた!

ルソーのいう平等とは「すべての人の権力と富の大きさを厳密に同一にすること」を意味していない。

 

権力の平等とは一人の市民の持つ権力が暴力にまで強まることがないこと、そして常に地位と法律とに依拠して行使されることを意味する。

富の平等とはいかなる市民も他の市民を買えるほどに富裕にならないこと、いかなる市民も身売りせざるを得ないほどに貧しくならないことを意味する。

 

 

つまり、上限と下限の間に点在してくれれば、範囲内に収まってくれればOKってことらしい。

思うに、隣人に対して不満を持たない範囲内で生活するならば好きにして良いが、不平不満が出てしまう程に差が広まってしまってはいけないということなのかな。

 

ルソーも述べているけど、このためには豊かなモノも、自分の財産と勢力の行使を抑制し、貧しき者も、貪欲と羨望を抑制することが前提となるのである。

 

つまり隣人に対して不満を持たない・持たれない範囲内に収まっても良いや、という自己抑制を許容できる人が集まった共同体じゃないとこの社会契約を締結はできない。

 

うーん。そんな国民は存在するのか。

 

実行

「これをした方が良い」

「やれって言われたからする」

 

それが今までの私の行動の理由だったから

「これをやってみたい!」

「いつか実現させてみたい!」

とか、考えたことがない。

 

何をもって、何がきっかけで

みんなやりたことが見つかるの??

 

結果に出ることしかやってこなかったから

自分の肩書きを捨てるのが怖い。

怖いし、だからこそ捨ててみたい。

 

肩書きとか経歴とか積み上げて来たもので人を判断しなくて良いから

私は旅が好きなんだと思う。

 

 

すべてから解放される。

誇れない自分を擁護するために積み上げて来た経歴、学歴が通用しない。

個としての私を見つめられる。

 

一人旅に行ってみようかな。

何だかんだで一人旅はしたことないしなあ。

 

実行すること。Take action.

実はすごく難しい。

気を使わなくて良い人

男友達と飲んだ。

なんかね、ちょー楽しかった。笑

 

10月入ってから一番楽しかったレベル。

好きとかそういう感情は皆無で、

純粋にほんっとに楽しかった。

 

男同士ってこんな感じなんだろうなあ。

ジョークって大切。

ジョークの言える人になりたい。

 

どういう時が幸せなのかな?何が好きなのかな?

って最近考えることが多いんだけど

気を使わず、取り繕わず、

自然体のままにジョークを飛ばせるような関係の人といる時が幸せなんだわ!!

(長いこと考えていた割に答え単純)

 

つまり気を使わなくて良い人といるのが幸せ。

新しく友達を作ったり、合宿に参加したり、

そういうのを1、2年生の時に頑張ってたけど違う。

私はそういうことをしている時よりも

自分の素でいられる場所が好き。

 

1気を使う人を減らす

2気を許せる人を増やす

 

誰からも好かれたい

→気を使ってしまう

→疲れるし相手もつまんない

→仲良くなれない

 

 

 

私は真面目すぎる。

自由はlibertyだと思ってた。

しがらみや規則からの解放をずっと求めてた。

 

でも高校卒業してからlibertyを手に入れて

残ったものは

何をしたらいいの…?

だった。

 

今度はfreedomを追い求める段階になった。

籠の外に放り出された鳥のように

飛びたいけれどどう飛んで良いのかわからなかった。

 

高校でも別に自分で楽しめる人は楽しめてた。

ただ私は人の言うことを聞いて守って

本当につまらない人間だったんだと思う。

 

自分で楽しみを見つけられるひとになりたい。

おもろいなこいつ、って思われる人になってやる。

 

 

 

せいぜい1年そこらしか一緒にいない人との約束を守るより

21年間一緒にいる人のお祝いをしてあげる方を選ぶのが当然だよって 

 その通り。

 

いつか別れるかもしれない人に依存しすぎないよう

慣らしている最中。