『ヘーゲル「精神現象学」入門』前半
ヘーゲルは1700年代後半から1800年代前半にかけてドイツで活躍した。
またドイツ人かよ。真面目かよ。
本当に近代哲学の偉人にはドイツ人が多いっすね。頭の良い民族だ。
そりゃあ自分の国の偉人にたくさん哲学者がいたら、その人の自伝だの武勇伝だの耳にするわな。
ドイツの偉人カントの「我思うゆえに我あり(コギトエルゴスム)」
って誰もが聞いたことのあることフレーズをヘーゲルは批判したわけです。
私たちも日常生活の中で主観的、客観的って言葉を何の気なしに使ってる。
カントは一人の人間が主観と客観の二役を演じていると思った。
でも物を右から見る時と左から見る時、見え方は変わっちゃう。
ってことは人によって主観は異なり、そして私が「客観的」だと思っている事柄は
実は他人にとっては客観ではないじゃん。
意識の外部の客観的な実在を比較して観察なんてできっこない。客観なんて錯覚だ。
こういう批判をしたのがラインラントだそうです。ヘーゲルもこの手の批判をしています。
ほう。カントのコギトエルゴスムって
私が昨日考えた時、考えた主体は私だけどその私は今の私とは違う。
ほらたった今そう考えていた主体も、今この瞬間の私とは違う。
じゃあ私ってなんなの?
それは、こうやって今この瞬間に考えている私なんだよ。
ってことなのか。
自己完結した考え方だってヘーゲルは批判しているけど、カントにも納得。
カントの主観客観の考え方に対してヘーゲルがどう考えたかというと、
正直、何言ってるか私には理解できん。w
「ただ純粋に眺めれば良い」というのがヘーゲルの結論みたい。
客観性って絶対的に真じゃなくて、相対的に心理であれば良いんだって。
他の人はこう思ってるんだろうな、という推測レベルで良いってことかしら。
自分は自分だ!!俺という主体が考えているんだから俺は存在するんだ!
ここで他人の存在を考える隙間もないのがカント。
一方でヘーゲルは自分とは他人の存在あってこそ成り立つ存在であって、
他人を介して自分を捉え直す。他人までも自分である。
という共同体主義的な考え方だなという印象。
自由が叫ばれるフランス革命の中で、ヘーゲルは自由とは他人との関係の中で成り立つことを痛感したのかな。