『社会契約論』を読んでみた
就活も終わり、卒論もない。
私は「卒論がない」ことに少しコンプレックスを感じてる。
人の意見を理解し、暗記することには慣れている。
でも、「私はこう思う!」と主張してきた経験が少ない。
大学って義務教育との対比において、
能動的に自ら学ぶ場って紹介されることが多いけど
卒論のない私は自ら能動的に学ぶ機会を逃して学位を得るのか…と思うと
少し後ろめたいというか、これで良いのか?とモヤモヤしてた。
卒論って自分の興味のある分野を自ら調べて結論を出すモノなら、
私も自分で興味のある分野について調べて自分なりの結論を持ってみよう!
これが古典を漁りだしたキッカケ。
では、さっそくジャン=ジャク・ルソーの著書『社会契約論』の感想を書いてみようかな。
こんなに自己抑制のある主権者が存在するか!
論理的には成立しても、実現可能性低すぎるやろ!
これがファーストインプレッション。
要は、「みずからと権力を全部共同体に譲渡すれば、社会の構成員全員の人格と財産を守ることができる!だから全員権力を社会に譲渡しよう!」
この契約は自分と他の主権者と、そして自分と国家と
二重に結ぶことになる。
ここがポイントで、他の主権者も自分と同様に国家と、そして他の主権者と契約を結んでいる。だから運命共同体!安心!ってことなんだろう。
私も契約するからあなたも契約してね、
私も約束を守るからあなたも約束守ってね、ってこと。
そんなに他人のこと信用出来っこねえわ。
こう思った。でも、読み進めていくととても正論に思えてくる。
まず、一般意志は立法に関して考えられる。
人民が個別意志を持ちうることを前提として、一般意志を抽出したものを方にしようと主張しているわけ。
特別意志を方の中に入れてしまうと、一部の人にのみ有利な条項を作りかねないから
全員が納得している部分のみを立法化しようというもの。
めっちゃ正論やん。
そして時代背景を視野に入れてみると、ルソーの意味していたところを私は取り違えていたことに気づいた。
ルソーが生きていた1700年代のフランスはまさに絶対君主制下にあり、
「奴隷のように自由のない国民が、自分自身の手で自分の納得する制度を作り出すにはどうしたら良いのだろう?」
と市民が考えるのは自然なこと。
王様のように好き勝手やる奴がいては全員が納得する制度なんて作れない、
多少なりとも我慢を受け入れた上でこそ、自由を手に入れられるんじゃないか。
こういう思考回路になるのはとっても自然。
むしろ、今の私が考える「そんな我慢なんかしたくないし、自由にいてえわ」
って考えが幼稚で傲慢なものに思えてきましたわ、、、
いつの時代から、自由に我慢を求めないようになったんだろう?
(現代の日本人の感覚からすると、自由と義務は一体だって考えはあるけど
義務と我慢とは少しちがうような気がするし、義務についても強調されていないような気がする。)
そしてもう一つ疑問に思ったのは
執行権を持つのは主権者じゃないの!?
ということ。
日本の場合執行権(行政権)を持つのは内閣であって、
彼らも主権者なんじゃないの?
ルソーは統治者(執行権を持つもの)は公僕であり、主権者であってはならない
と主張しているけど、
つまり全く関係のない人が行政権を持つべき、ということよね?
それって内閣は外国人で構成されるべきってこと?
なんだかしっくりこないのは私だけでしょうか。
理解の仕方がおかしいのかな。
総じて、法とは一般意志によって形付けられるものであることには納得した、
でも一方で理想論的すぎて、これが社会主義的な発想に発展していったのかな、
つまり実現は無理だったのかな。と感じました。
・立法者と執行者の違い
・ルソーの思想を実行した政治体があればその結末を知りたい
・ルソーはカトリックに改宗したらしいけど、なぜなんだろう
・ライプニッツ、モンテスキュー、マキャベリ、ロック、ディドロ、グロティウスの本も読んでみたい
最後に、、、悲しかったのは
ルソーは祖国ジュネーヴへの多大な愛国心を『社会契約論』に込めたはずなのに、
ジュネーヴ政府はこれを発禁としてしまったこと。
また自分を陥れる陰謀同盟を恐れたり、ノートルダム聖堂の大祭壇に『対話』の原稿を寄託しようとするも果たせなかったり、
後世に偉大とされる人は、存命中は不遇な人生を送っているのかも。
歴史に名を残した人が存命中にもっと評価を受けられたらよかったのにな。
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取り違えてた!
ルソーのいう平等とは「すべての人の権力と富の大きさを厳密に同一にすること」を意味していない。
権力の平等とは一人の市民の持つ権力が暴力にまで強まることがないこと、そして常に地位と法律とに依拠して行使されることを意味する。
富の平等とはいかなる市民も他の市民を買えるほどに富裕にならないこと、いかなる市民も身売りせざるを得ないほどに貧しくならないことを意味する。
つまり、上限と下限の間に点在してくれれば、範囲内に収まってくれればOKってことらしい。
思うに、隣人に対して不満を持たない範囲内で生活するならば好きにして良いが、不平不満が出てしまう程に差が広まってしまってはいけないということなのかな。
ルソーも述べているけど、このためには豊かなモノも、自分の財産と勢力の行使を抑制し、貧しき者も、貪欲と羨望を抑制することが前提となるのである。
つまり隣人に対して不満を持たない・持たれない範囲内に収まっても良いや、という自己抑制を許容できる人が集まった共同体じゃないとこの社会契約を締結はできない。
うーん。そんな国民は存在するのか。